2011年10月20日

学術調査書ではなく、インカ自炊旅の貴重な記録


高野 潤著「インカの食卓」(平凡社 1800円+税)

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南米の太平洋岸に南北に長く連なるアンデス山脈。
北はコロンビアからエクアドル、ペルー、ボリビア、チリにまたがるインカの遺跡で著名。
この高地はジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどが誕生した故郷であり、世界各国の多くの研究者が現地を調査している。
その食物に関する学術調査の一つだろうと読み始めたら勝手が違っていた。

筆者は大学の先生でもなければ、農業や食品関係の技術者でもない。
写真学校を卒業した単なるカメラマン。
それが1973年、26才の時にアンデスを訪ねたら、すっかり魅了され、以来ずっとアンデスの国々を彷徨している。
その彷徨が面白い。
普通の旅は、各地のホテル、レストラン、酒場、民家などでの食事が主。
珍しい食品を市場で見つけたら、衝動買いしてレストランとかホタルのキッチンに持ち込み、ムリを言って料理してもらうのが通例。
旅とは、所詮そんなものだと考えていた。

ところが、筆者の旅は1週間とか10日という旅ではない。
かなり長期間に亘って1ヶ所に住みつき、最初は徹底的に遺跡を撮りまくることだったらしい。
奥地の遺跡の周辺にはホテルやレストラン、民宿などという気の聞いたものはない。
例外的に、町からきている教師のためにツケで食べさせている安食堂らしきものがあるにはある。
そこは民家のおばさんが片手間にやっているもので、営業時間が短くて少しでも遅れると店を閉めてしまう。
料理はいたって簡単なもので、毎食とも具の少ないスープにボロボロのご飯。ジャガイモを中心にしたオカズにクタクタにくたびれた油で揚げた目玉焼だけ。とても食欲がわく代物ではない。
このため1ヶ所に住みつくために、自炊生活を余儀なくされた。

今はバス便がかなりあるが、1973年にボリビアのラ・パス市の奥地を巡った時は、バス便がほとんどなかった。
頼りは週1便のトラック便の荷台。砂塵によって全身が真っ白になりながらトラック便の終点の村まで運んでもらう。
終点の大きな村には、板の間にベッドが数台並ぶだけの安宿が1軒あった。
客は、筆者以外に見かけたことがなく、そこで自炊生活。
背負ってゆくリュックに自炊道具やカメラなどを入れると、町から運べる食料品の量は限られてくる。
必然的に、周辺の自然から調達出来るもの。あるいは民家に頼んでわけてもらえる食料品が主にならざるを得ない。
こんな旅を続けているうちに、筆者の関心事はいつの間にか遺跡よりは、インカの人々の食生活に変わっていった。

つまり、アンデスの山で採れる植物や果物、あるいは原産種の農作物がどのように栽培され、採取されてきたか。
それに、野生の動物を含めて狩れる動物と家畜。
それらを、昔からどのように保存し、料理して食べてきたか。
つまり、自炊生活をベースにした今までになかった「食のフィールドワーク記録」。
農業や食の専門家でない著者が書いたこの本の面白さは、アンデスでの自炊生活と言う想定外の面白さにある。
その自炊生活に限定して、もっとわかり易く書きこんであれば良かったのだが、範囲を拡げすぎてインカが征服された時代やそれ以降の植民地文化にも触れている。
たしかにそれは大切なこと。だが筆者の仕事ではない。
したがって、私が面白く感じたアンデスでの自炊生活部分を中心に紹介したい。

村には雑貨屋が1、2軒あるだけ。
そこで入手出来るのはコメ、ムギ、麺類、パン、塩、油など。
缶詰はイワシらしきものがあるだけ。まれに、ジャガイモやタマネギが売られていることはあったが、野菜類を雑貨屋で見かけることはなかった。
このため、日本から運んだアルミ製のボトルに街の市場でガソリンを詰め、醤油と固型スープ、小麦粉、瓶入りのマヨネーズなどを買い込み、ザックで運んだ。
最初の頃はボビリア料理の一つも知らない。
いざ自炊を始めた時、頭に浮かんでくるのは日本で食べた料理ばかり。
つまり、ご飯にオムレツか目玉焼。それにジャガイモを天ぷらにして醤油で・・・。
たまに タマネギや羊肉が手に入ると空揚げにするか、砂糖を少し加えて煮物をつくった程度。

初めて現地の素材らしきものを使ったのが、ティティカカ湖で捕れたイスピという煮干しに似た小魚。
これでダシをとり、太いスパゲティをウドン変わりゆでて食べた時は、満足感が得られた。
その次に知ったのは、アンデス特有のチューニョ。
これは乾期で昼と夜の寒暖の差が大きな6月につくられる。南半球だから日本の夏がアンデスの冬。
高度が高いからジャガイモを夜半に外に出しておくと降りる霜で凍結し、水分が次第に抜けて行く。そして、昼は強い天日に当てる。これを1週間続け、最後に足で踏んで水分を出しきったジャガイモをモラヤという。
この乾燥ジャガイモのモラヤは、保存食として年間を通じて食されている。

さらに、この乾燥したモラヤを石台の上で、石で叩いて壊し、磨り潰して粉にしたのがチューニョ。日本のジャガイモのデンプンからつくる片栗粉。製法は違うが類似品と考えてよかろう。
これをスープにして食する。
また、お粥のようにして食べるのをチューニョ・ラワという。
このチューニョ・ラワの優れている点は、連日食べても飽きがこない点。
日本のコメのような存在なのだろう。

山の生活で最も困るのは、青菜類が手に入らないこと。
たしかにビタミンCやDは干しジャガイモ類から摂れるので、村人は青菜類を口にしようとは考えない。だが、ハクサイやホウレンソウ、小松菜で育った日本人。青菜類がやたらと食べたくなる。
民家の近くにアンデス原産のキヌアの畑を見つけた時は、ムリヤリ頼んで畑に入れてもらい、その葉をつんで持ち帰った。キヌアはアカザ科でホウレンソウの仲間。スープやチューニョ・ラワに入れても具として素晴らしい。町ではホウレンソウが手に入らなかった時にはスープの具に使っていたというが、村人が使うのはごくわずか。

このような安宿のない村では、外国人の訪問者にあてがわれるのは小学校の空き部屋。
板張りかセメントの床にツェルトを張って自炊させてもらった。
ボリビアのだだっ広い高原の真ん中にポツンとあった集落の小学校。
とてつもない乾燥と寒冷の地。
ガラスが割れた窓からは容赦なく冷たいカラカラに乾いた風が吹き込む。
ツバも飲み込めない程のカラッ風にノドがやられ、風邪をひいてしまった。
また、広大なウユニ塩湖沿岸の集落の学校でも同じだった。夜ともなれば忍び寄るセメントの床からの冷気は、通常のものではなかった。
そして、何よりも辛かったのは、夜の食事が終わる19時からあくる朝の6時頃までの11時間。電気がないのでただひたすらに目をつむって耐えねばならないこと。

その後、ペリーのクスコ市を拠点に出かけた大きな山村では、どこへ行っても警察官の詰め所が宿と決められていた。
この詰め所は学校のような底冷えはなかったが、気ままな行動が一切許されなかった。
自炊は外で行い、夜は警官達の激しいイビキに悩まされた。
それだけではない。時には乏しい食料しか持っていない警察官のために、著者の食料を分け与えなければならないこともあった。

そして、インカでの自炊生活が4年目を迎えた時からの3年間、村人の家へ泊めてもらう生活に切り替えている。その方が、村人が受け入れ易いと考えたから。
この間の旅では、ガソリン、コンロ、食器、ツェルトなどの荷物が著者のザックから消えた。その変わり、ザックに飲料アルコールを入れて運び上げ、それを世話になる家に丸ごと渡した。
この3年間で、村人の日常生活のほとんどを知ることが出来た。
村人がつくる自家製のトウガラシのおいしさやつくり方。 朝昼夕のジャガイモ料理の内容。
雷雨の後にたくさん生えるというセタという名のキノコ。 さらにはアルガスと呼ばれている藻類。
そのほかにも川の中にあるモロコイというカエルのような大きなカタマリで、ナマでも食べられコリコリとした食感。
ライタと呼ばれ、スープに入れても ゆでたジャガイモと一緒に食べてもシャキシャキ感のあるキクラゲのような食物の存在などを知ることが出来た。

しかし、村人の家での生活にはいくつかの難点があった。
一番困ったのは、村人が遊びに来ると夫婦ともアルコールが無くなるまで酒盛りが続くこと。
とくに祭の季節は、祭そのものには興味を惹かれたが、昼夜を問わず限りなく続く酒席に辟易させられた。
そして、1990年のペリー高原のアマゾンでは、倉庫を借りて再び自炊生活を始めている。
その自炊生活を追いたいが、紙数が尽きた。


最後に、アンデスにはなんと古典系を含めると1200種ものジャガイモがあるという。
そのうちの210種と著者は出会っており、63種がカラーで紹介されている。
カラフルで、これがすべてジャガイモだと信じられない。味も多彩。
しかし、煮てしまうと見た目はほとんど変わらないと言う。
その写真の、ほんの一部を紹介する。

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この写真を見ていると、フィールドワーク力がビンビン伝わってくる。
シミュレーション全盛時代だが、人々の心を打つのは生のデータ。



posted by uno at 07:52| Comment(0) | 書評(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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