2012年06月05日

東日本大震災で大活躍した数々の医師の記録


今度の大震災で、本当に頑張ってくれたのは誰だったのだろうか?

まず、震災当日の地元消防団を始めとして、いろんな救援活動をした小学生を含めた個々人や企業の方々を挙げなければならないだろう。
次いで、迅速な救援活動を開始してくれた自衛隊、警察、消防隊や各国の兵士による救助・捜査活動も忘れてはならない。
さらには、焚き出しをしたり、救援物資を運んだり、ボランタリー活動に参加した多くの個人や企業の存在も大きかった。
そして、特筆しなければならないのが医師や看護師の死に物狂いの奮闘。
そうした医師の手記やブログをいくつか読んで感動させられ、一部は紹介してきた。
だが、うかつにも昨年8月30日に出版されていた下記の著作は見逃していた。

海堂 尊監修 「救命  東日本大震災、医師たちの奮闘」 (新潮社 1500円+税)

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日本医師会というと、私どもにはなんとなく胡散臭く感じてしまう。
ところが日本医師会は、震災後一ヶ月の時点で自ら被災し、避難所で医療行為に携わる医師に、一律月額30万円を義援金の中から「給料」として配分したという。被災者に近い立場に立たされている医療従事者に対する価値ある即断。
ところが、日本赤十字社に寄せられた義援金は3ヶ月で2523億円も集められたのに、6月初めに被災者に届いた現金はたった370億円だったという。霞ヶ関がワンクッション入るだけで、スピードがこれほどまでに鈍る・・・。

この著は、日本医師会の常務から紹介された宮城、岩手、福島、千葉の9人の医師を、歌代幸子、増田晶文、吉井妙子の3人のインタビューによってまとめられたもの。
そのきちんとしたインタビューには感心させられる。
各医師は、いろんなメディアから取材を受けている。しかし、それらの取材は表皮的で、取材される医師にとっては不満が残るものが多かった。
しかし、この本に集録されたものは、意が十分に伝わってくる。丁寧な取材が良い。
それらを、海堂氏が監修している。
ただ、9件全部を紹介するわけにはゆかないので、3件に絞って紹介したい。

最初に紹介するのは、心のケアが専門の宮城・名取市の東北国際クリニック院長の桑山紀彦氏。
桑山氏は2年前に自ら志願してパレスチナ自治区のガザ地区に入り、空襲に遭うという命がけの経験を積んでいる。また、スマトラ沖地震や四川大地震など多くの災害地や難民キャンプの現地も踏んでいる。
しかし、今度の大震災では今までに学んできたこと、教えられ習得してきた言葉は、何一つ役に立たないということを知らされたという。心療内科としてカウンセーリングしなければならないのに、身に付けたはずの技術は役に立たなかったという。
仙台空港まで車で5分という名取市にクリニックを開設したのは2年前。
NPO法人の仕事で埼玉・長瀞中学校で講演している時に地震がきた。すぐ名取へ戻ったが病院に着いたのは夜中の1時。すぐ隣の閑上地区は津波にやられたが、幸いクリニックのあった地域は30センチの床下浸水で済み、病院は無事。スタッフも避難所に避難していて無事。それを確認してから山形の自宅に戻り、妻と2人の子供の安全を確認してから再び病院へUターン。
翌日外へ出て見ると見慣れた風景が一変していた。田圃は真っ黒な湖になり、車が浮かんでいる。
お婆さんが天に腕を突き出すようにして、眼を開いて死んでいる。
こんな被災地のど真ん中で病院を経営して行けるわけがない。そして、不幸なニュースが次々に伝えられてくる。これで自分の将来は終わったと思った。

スタップは足がないので出勤出来ない。それでも翌日から1人で白衣を身につけたら、55人もの患者が訪ねてきて野戦病院のようになった。もちろん食事をしている時間もない。
24時間病院を開けておいたらそれからの1週間は睡眠なし、食事なしでの診療に。
不思議に眠くならず、空腹感もなかった。
電気や水が出ないのはなんとか凌げたが、薬の欠損とガソリンの入手難は辛かった。
ただ、NPO法人の仲間が14日目には九州から駆け付けてくれたのを始めとして札幌、東京、熊本、広島、徳島から、自分の病院を閉めて山ほどの薬と看護師同伴で駆けつけてくれ、夜勤もやってくれた。
そこで、内科診療は応援の先生やスタッフに任せ、桑山氏は心のケアに専任することにした。

「保険証がないけど…」という海の男。「何もかも無くなった。俺ここで泣いてよいかな…」というので一緒に泣いた。
「下痢をしている」という高校1年生の女子。避難所は冷えるだけでなく、両親を失って体調を崩していた。背中をさすってやりながら大粒の涙を流すしかなかった。
田圃の一本道を逃げている時に津波に飲み込まれたが、偶然九死に一生を得たお婆ちゃん。
夜中にはうなされ、コップの水もみそ汁も飲めない。その田圃の一本道へ行くことが出来ない。何度促してもブルブル震えて尻ごみするばかり。
そこで、孫娘に連れられて泣く泣く土手に行く訓練をして、やっと3回目で農道が歩けた。
翌日からみそ汁が飲めるようになり、夜中にうなされることもなくなった。
公務員の中年の男。
公民館に津波が押し寄せてくるのを見て走り、やっと歩道橋へ登ったとき、津波に幼い子と母親とおばあちゃんがさらわれて行くのを目撃した。以来、毎晩それが夢に出てきて眠れないという。
今、思い切り涙を流しておかないと、一生残ってしまう。だから毎週来院してもらっている。
そんな話が延々と続く。
元気を装っていてはダメ。まず大人が弱音を吐いて泣くこと。そうすれば我慢している子供も思い切って泣ける。全てを吐き出せる。
また、医療関係者は患者と同じ体験が出来ないから「共感」どまり。これが「同感」出来ない限り心のケアが出来ないことを悟らせられたという。

次は岩手・大槌町の植田病院の植田俊郎院長。
植田病院は4階建のRC造。 診察を終え、全ての患者が帰った後で津波警報。隣が農協でその駐車場に居た人にも声をかけ、母親や看護師さんを含めて18人が屋上へ避難。院長は往診鞄とAEDを持って屋上へ。そしたら3波にも及ぶ津波で近くの家がほとんど流され、火事まで起こり、1万5000人の大槌町の12%が死亡、または行方不明になるという大惨事に。
院長は高校、大学を通じて山岳部で活躍。いまでも月に2度は登山を欠かさない。
このため、倉庫部屋にはダウンジャケットもあればズボンもある。寒くなったので全員を4階に下ろして厚着をさせ、毛布や布団で冷えから身を守らせた。
母親は、「もうダメかも知れないね」 といったが、ビバークに馴れた院長にはダメだという考えは毛ほどもなかった。そして、「腹が減っては戦が出来ない」 と、次は空腹対策。
水が引いたので3階へ行き山岳用のヘッドランプを頭につけて、山用に買っておいた餅、カップ麺、それにオロナミンCを2ケースほど持って上がった。さらに冷蔵庫から氷を取り出し、山岳用のガスコンロで溶かしてカップ麺を。餅は登山用フライパンで焼いて砂糖醤油をつけた。
このほか、バレンタイン用にもらったチョコレートやホワイトデー用に奥さんが用意していてくれたクッキーも沢山あり、山男の危機対応力の旺盛さを全員に知らしめた。

自衛隊のヘリで2回にわけて救出されたのは翌日。避難先は30ヶ所ある避難所の一つの弓道場。
その避難所を調べて見たら400人の避難者の中で医師は院長だけ。
そこで、腎臓透析と妊婦がいないかを調べたら、腎臓透析患者が2人いた。自衛隊に相談して八戸の日赤病院へ付き添いで搬送。
翌日には弓道場に長机2つを並べて着のみ着のままで診察開始。しかし、手元にあるのは往診鞄とヘッドランプとランタンだけ。圧倒的に治療の物資が足りない。
血圧の測定と体温を測り、あとは話を聞いてあげるだけ。それでも、避難者は大いに安心し、感謝してくれた。
そして、15日には釜石病院が動いているという情報が得られ、緊急の患者は病院へ送ることが出来た。
また、釜石の保健所から睡眠薬と血圧の薬が3種類届けられた。しかし、血圧の薬は千差万別。
「なんとか特別措置として、処方箋なしで暫くの間は薬が買えるようにしてほしい」 との手紙を市の災害対策本部へ書いたら、17日には薬の卸屋さんから400錠の新しい血圧薬が手に入った。

その後、ボランティアで働いてくれる医師が増えたことには心から感謝している。しかし、中には被災地の医療に携わっているということで、やたらにテンションが上がって責任感から自分を追い込むタイプを多く見かけた。
避難所に医師が居るかいないかで、避難している人の安心感が違う。父は、「開業医というのは広く浅く、なんでも診ないといけない」 と言っていたが、震災時にはなおさら・・・。
いろんなメディアの人が、院長は泰然自若としていると言って驚いていたが、「病気は医師が治すものではなく患者さんが自分で治すものだ」 と思っている。したがって、私が治してやったのだと威張っているのは滑稽。
その態度が、ギスギスした避難所生活での潤滑油的な役割を果たしたかもしれない。
しかし、私は今後においてもこの考えを変えないし、次にはボランタリーで応援に行きたいと考えているし、出来れば山へも行きたいと考えている。

最後は宮城県歯科医師会の身元確認班長の江澤庸博氏と柏崎潤副長と東北大の青木孝文総長補佐。
私は勉強不足で知らなかったが、遺体の身元確認という仕事は歯科医師の仕事なのですね。
「歯は人間の履歴書でもある」 と言っても良いほど、歯を見れば多くのことが分かるという。特に白骨化した場合は、歯にしか手掛かりがないと言っても良いそうだ。
ただし、日航ジャンボジェット機墜落事故のように、搭乗者名簿がある場合はよいが、今回の場合のように遺体数が多い上に名簿があるわけではない。
そして、デンタルチャートは2002年に日本歯科医師会が作成したものが基本だが、各県によって微妙に形式が違う。宮城県は立体的な福島方式と呼ばれているチャートを用いている。

大震災から2ヶ月過ぎた時点で、宮城県での遺体収容数は約8850体で、身元不明遺体は1200体にも上ると言う。
1日で歯科医師がもっとも多く動員されたのが3月17日の66人で、これまでに延べ1500人が動員されている。
しかし、応援に駆けつけてくれる医師は、必ずしも検死の経験がある人ばかりとは限らない。
検死する者にとっては乳歯とか混合歯列を見るのは本当に厳しく、切なくなる。
そして、震災から2ヶ月も過ぎてくると遺体の腐乱も激しく、歯茎から歯が抜け落ちて正確なチャートが取れなくなる。どうしてもX線での写真が必要になってきた。
この時、群馬県検視警察医の小菅栄子女史から得た指導は貴重なものだった。
そして、デンタルチャートとかX線撮影で精密なデータが集まり、一方行方不明者の治療カルテルも続々集まるようになってきたら、この厖大なデータの処理に不安が生じ、東北大の青木教授に登場を願うようになった。

この詳細は、あまりにも専門的になるので省く。
ともかく、この取材に立ち合った3人だけでなく、「日本のような先進国で、身元不明者が1200人も出るなんて、絶対に許せない」 と関係者は口を揃えて言う。
監修者の海堂尊氏は、後書きの中で次のように強調している。
「死体の画像診断であるAi(オートプシー・イメージング)を導入すれば、遺体の検査が飛躍的に向上する。震災から4ヶ月たった時点で、CT検査車派遣会社・フリールから格安でリースしてもらえることになり、石巻医師会から宮城県警に上伸したが、3週間後県警から断りの返答がきたという。
「この県警の態度は医師会と遺族の考えを無視した許せないものだ」 と海堂氏は大憤慨。
医学に疎い私には、海堂氏の憤慨の内容がよく理解出来ない。
ただ、折角の良い技術があったのなら、憤死した遺体と遺族のために活用してほしかったと思う。

posted by uno at 04:32| Comment(0) | 書評(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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